8−16  亚洲的同胞 中国人们

       アジアの同胞  中国の人たちへ
 

つい最近の朝日新聞の一節に次の内容がありました。

王次官は、靖国神社について「中国とアジア人民の鮮血で両手を血まみれにしたA級戦犯がまつられている」と言及。

「日本の指導者の参拝は決して日本の国内問題や歴史、伝統、習慣に属する問題ではない。侵略の歴史に日本政府が正しい態度で臨めるか否かの問題だ」と指摘した。いままでの、歴史認識学上の考察・論証から、太平洋戦争が侵略でないことがわかります。

ですから、アジア人民の鮮血・・・の部分は誤りになります。

あとは、日露戦争後の、満州事変と日支事変ですが、考察・論証から、国家中枢部の指導者の中には、侵略と考えた人間がいたように思います。八紘一宇の思想のもとに、西欧列強の仲間になり、しのぎをけずったのです。それが、19世紀と20世紀初頭の論理でした。もし、日露戦争後、日本が、列強の仲間に入る選択をしなかたら、中国、アジアは、西欧列強に分断され、植民地化され、半永久的に支配されていたでしょう。アジアの人は、日露戦争によって、民族としての自信につながり、独立運動へとつながっていくのです。

また、中国共産党の勝利は、日本の敗戦を契機とすることは後で示します。

そして、国家中枢部が侵略だと思っていたとしても、前線にいる若い日本兵は、中国人民、アジア人民を、西欧の搾取、植民地化から解放してあげようと信じて、戦ったのです。

ですから、中国と・・・人民の鮮血・・・の部分は誤りになります。


そこで、中国を知るために、いくつかの本から、抜粋して示します。

中国の最初の革命と言えば、辛亥革命で、アジア初の共和国である中華民国が成立しました。その思想は孫文三民主義でした。

孫文の足跡を追っていきます。

抜粋1*********************************

世界への歴史 自立へ向かうアジア 狭間直樹/長崎暢子 著

来日した孫文がもっとも力をいれて訴えかけたのは、中日両国の政治的な同盟の締結と経済的な支援の要請だった。孫にしてみれば、中華民国を樹立した辛亥革命は日本の明治維新なのである。革命に成功した中国が、まず鉄道を建設して交通網を整備し、その基盤のうえに実業を発展させて富強を達成する、そのための協力を日本に期待したのだった。しかも、孫文によれば、中国と日本の同盟が世界にたいしてもつ意義は以下のようである。それにより、東亜の安定がもたらされ、欧米の侵略からアジアを解放して世界の「大同」を実現する第一歩となるはずなのである。大同とは、中国の古典『礼記』にみえるユートピア、近代風にいえば、自由・平等・博愛の実現された理想社会である。
アフリカまで分割しつくされた帝国主義全盛の時代に、中国を半植民地の苦境から救いだし、列強と等し並みの国にし上うというのだから、気宇は壮大である。パートナーとされたのは、明治維新いらい、富強への道を歩んできた隣国の日本なのである。両国の提携は、もちろん対等が原則である。しかも留意されるべきは、列強と轡を並べた中国の、他国にたいする侵略が、.そこにはまったく想定されていないことである。
 孫文にとっての「大アジア主義」は、このように被抑圧民族の解放を目指す視点に発するもので、日本もその立場に立つことによって、その世界史的な使命を達成できるとするものだった。
孫文の大アジア主義といえば、晩年の神戸での演説が有名である。しかしかれは、中華民国創立直後のこのとぎの訪日においてすでに、その構想を日本の各界に熱をこめて訴えかけていたのだった。


抜粋1*******************************

孫文は、日本の明治維新を倣って、辛亥革命を成功させた。孫文の大アジア主義とは中国と日本の同盟を意味し、東亜の安定、世界の「大同」へ導くものだった。

その次に 袁世凱が現れ、南北対立、軍閥割拠の混乱の時代へと移る。

次に、中国に現れたのが、国民党の蒋介石と中国共産党の毛沢東でした。

それでは、毛沢東の足跡を追っていきます。

抜粋2*******************************

物語 世界史への旅 大江一道 山崎利男 著  山川出版社 

この年中学生であった毛沢東は、湖南革命軍に応募して、短期断だが軍隊にはいっている。 ところが、清国から中華民国にかわっても、大地主がはびこる古い社会はあらたまらなかった。大地主と手を組んで、軍閥とよぱれるいくつもの武装軍団が各地でのさぱり、人民を苦しめていた。
 毛沢東は、湖南第一師範学校にはいり、楊昌済先生の「正しい、道徳的な、徳性のある、社会に有用な人物になれ」という教えに、強い感化を受けた。夜間講習会をひらいて労働者に歴史を教えたり、「新民学会」という青年結社をつくるたど、活発な社会活動に飛びこんだ。ロシア革命のニュースを知ったのはそのころである。
 それから数年がすぎたー。一九二一年七月、上海のフランス人居留地にある女学校の、夏休みで人気のない寄宿舎の二階に、一三名の中国人がこっそり集まった。そのなかに、小学校教師の毛沢東もまじっていた。全国でわずかに五七名の党員しかいない中国共産党の創立大会であった。

抜粋2*****************************

抜粋3**********************************

九月二日、東京湾の米艦ミズーリ号上で降伏文書調印式が行われ、連合国はその翌日九月三日を対日戦勝記念日と決めた。

中国にたいする調印式は、九日に南京で行われた。

中国は抗戦に勝利した。しかし、その勝利は複雑な意味合いをもつものだった。七七盧溝橋事件によって全面戦争に発展するまで、蒋介石が満洲を犠牲にしてでもまず共産党を討伐しよう、としていたことを想起してほしい。共産党との合作へと国民党を追い込んだのは、あまりにも露骨すぎる日本の侵略だった。そのタガがはずれてしまっては、両党間の矛盾が噴きださざるをえたかったのである。
 すでに抗日戦中から、共産党の八路軍や「辺区」にたいする国民政府軍の攻撃はたえず問題にな。っていた。また、八路軍系からする国民政府の支配地域への攻撃もなかったわけではない。しかし、それは大敵を前に控えての小競り合いといったところである。それが、日本の敗北とともに真っ向からの対立となり、降伏受理問題でまず火を嘆く。共産党系軍隊の降伏受理を蒋介石が禁じたのに、毛沢東はそれを無視した。
 「支那派遣軍」総司令官岡村寧次が蒋介石の命令を奉じて共産党に対決姿勢をとったため、山西省の場合のように、日本軍が国民政府軍にくわわって八路軍と戦うという奇妙た事態まで発生した。国民党が岡村の戦争責任を免じ、共産党がかれを中国戦線における筆頭戦争犯罪人としたことのうちに、三者の捻れた関係がよく映し出されている。降伏受理問題は、国共両党の雌雄を決する最後のたたかいのプレイヴェソトだったのである。
アメリカもソ連もそれぞれの思惑から、中央政権である蒋介石の国民政府を支援したから、国民党の優位は誰の目にも明らかだった。日本降伏時、共産党指揮下の軍隊は一二○万人まで増加し、「辺区」政府や抗日根拠地は人口一億を数えるまでに発展していたとはいえ、やはり国民党の側が数的には何倍も上まわっていたからである。
 国共両党の内戦は、抗戦勝利一年後の一九四六年七月に始まった。当初、国民政府軍は延安まで手中に入れるなど、その勝利は確実であるかに見えた。しかしながら、四七年初めに人民解放軍と改称して反攻に転じた共産党軍は、四八年九月から四九年一月にかけて、遼藩(錦州藩陽一帯).准海(徐州一帯).平津(北京・天津)の三大戦役に勝利し、さらに長江を渡って、四月二十三日、南京を占領した。敗れた衣蒋介石は「中華民国」を抱えて台湾に移る。一九四九年十月一日、毛沢東は北京の天安門上で「中華人民共和国」の成立を宣言した。
  その問わずかに四年、あまりにもドラマティックな事態の展開に世界中が目をみはった。共産党の勝利の原因として、政権党である国民党の独裁と腐敗、それにたいし、批判勢力である共産党の民主性と清廉、そして第三勢力や民衆の共産党への期待と支持などを挙げることができる。「連合政府」「新民主主義」が盛んに唱えられたゆえんである。

抜粋3***************************

歴史的には、日本の敗北とともに2つの中国が、大陸では一つになったのである。人民の敵日本から、真の人民の敵へと移ったからである。


作为亚洲人民一人说,不过,

中国的英雄孫文没能完成的梦

恳切地想想请实现我”大亚洲主义””世界的「大同」”

 


アジア人民の一人として言うのですが、

中国の英雄 孫文が果たせなかった夢 ”大アジア主義” ”世界の「大同」”を実現して頂きたいと 切に 思います。

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