8−13  @アメリカのみなさまへ  アメリカが言う自由とは
 

 

Address to a Joint Session of Congress and the American People 
United States Capitol
Washington, D.C.

On September the 11th, enemies of freedom committed an act of war against our country.  Americans have known wars -- but for the past 136 years, they have been wars on foreign soil, except for one Sunday in 1941.  Americans have known the casualties of war -- but not at the center of a great city on a peaceful morning.  Americans have known surprise attacks -- but never before on thousands of civilians.  All of this was brought upon us in a single day -- and night fell on a different world, a world where freedom itself is under attack.

 

米議会上下両院合同会議および米国民に向けた大統領演説

ホワイト・ハウス 大統領報道官室 2001年9月20日の中の一節に

「9月11日、自由の敵が、わが国に対して戦争行為を犯した。米国国民はこれまでにも戦争を経験している。しかし過去136年間、1941年のある日曜日を例外として、戦争はすべて異国の地におけるものだった。米国民は戦争で犠牲者を出している。しかし、それは穏やかな朝に大都市の中心部で起きた惨事ではない。米国民は奇襲も経験している。しかし、それは何千人もの民間人に対するものではなかった。これらすべてのできごとが、1日のうちにわが国に対してもたらされた。変わってしまった世界に夜のとばりが降りた。それは、自由そのものが攻撃にさらされた世界である。」


Saying the enemies of freedom  extensively,

Are you not enemies of freedom?

The history in U.S.A. conquered Indian who was a habitant of  the North America continent, 

with poison it not the history to confine the Negro who was a habitant in Africa to into U.S. 

contrary to the will of the Negro, to make him submit to you and to make him attend you?

To lead in the present, too, to the profit of the own country

is U.S.A. not the country which minds no kind of means?


 

盛んに自由の敵と言っていますが、あなたたちこそ自由の敵ではないですか。

アメリカ合衆国の歴史は、北アメリカ大陸の先住民であったインディアンを毒をもって征服していった歴史であり、アフリカの住民であった黒人を黒人の意志に反して合衆国のなかにおしこめ、服従させ、奉仕させていく歴史ではなかったのですか。

また、現在にいたるも、自国の利益なら、どんな手段でもいとわない国ではないですか。

 

そのためにいくつかの書籍を抜粋する。

抜粋1*******************************

世界の歴史 アメリカとフランスの革命 中央公論社 五十嵐武士/福井憲彦 

一九九二年は、クリストファー.・コロンブスがバハマ諸島に到着して以来五〇〇年目に当たっていた。.しかし、それがはたして「新大隆の発見」と言えるかどうかが論議の的になった。南北アメリカ大陸を征服したヨーロッバ人の目からみれば、、たしかにそれは未知の大陸の「発見」だった。とはいえ、南北アメリか大陸に住んでいた先住民の目からみれば、それは「新大陸」でも。ましてや「発見」でもなかったからである。
北アメリカ大陸に先住民が住むようになったのは、約二万五○○○年前からで、シベリアから陸続きになっていた現在のべーリング海峡を渡って来たものと考えられている。ヨ、ロッパ人が訪れた十六、七世紀には、南北アメリカ大陸に居住するインディアン(ネイティブ・アメリカン)が合わせて一五○○万人、現在の合衆国の領土内にも一○○万人以上が住んでいたと推定される。
抜粋1**********************************

抜粋2**********************************

世界の歴史 アメリカとフランスの革命 中央公論社 五十嵐武士/福井憲彦

イソディンの土地所有の考えも、ヨーロッバ人ときわめて異なっていた。インディアンにとって土地は住む人すべての共有財産であり、売買で所有する権利が誰かの独占になることなどありえたかった。譲り渡されるのはたんに土地を使用する権利であり、先祖代々狩猟を行ってきた地域は居住していなくても使用権が認められるのが当然だった。
 北アメリカ大陸でインディアンが遭遇した-ヨーロッバ人は、スペイン人にはじまり、十七世紀に入ると、フランス、オランダ、イギリスの各国に及んだ。イギリスの場合は、大航海時代に、アジア航路の発見に積極的に取り組んだわけでなく、北アメリカへの進出もスペインに比べてかなり遅かった。しかし、イギリスの植民地はほかの国の植民地と比べてかなり遅かった。しかし、イギリスの植民地はほかの国の植民地とは違って、定住の農業社会を作り上げた点に大きな特徴がある。またそれゆえに、インディアンとの間で深刻な「文明の衝突」を惹きおこさずにはいられなかったのである。

抜粋2*******************************

抜粋3****************************

物語 世界史への旅 山川出版社 大江一道・山崎利男

 ところで、この大陸には遠いむかしから住んでいた住民がいた。一五世紀末にやってきたコロンブスに、まちがって「インディオ」(インド人)とよばれ、いらい現在まで、その名をおしつけられている人びとである。かれらは、南北アメリカ大陸に約一五〇〇万人はいたという。そのうち、北アメリカには一〇〇万ないし三〇〇万人が住み、東部の森林、西部の大平原、南西部の荒地、ロッキー山脈西部の大盆地、太平洋岸といったぐあいに分かれて、約五〇〇部族(言語は五〇以上)が、だいたいは平和な生活をおくってきた。
  地域により農業と狩猟のどちらに重きをおくかのちがいはあったが、とうもろこし・豆・かぼちゃを作物として栽培し、魚をとり、森林では鹿を、平原では野牛(バッファロー)を、弓矢やわなをかけてとるくらしをしていた。魚でも鹿でも野牛でも、かれらは必要以上にはとらなかった。
  バージニアとかジェームズタウンとか名づけて、かってにはいりこんできた白人が、小屋をたて、土地や食糧をぬすむのに、インディアンは憤慨した。だから、ときには襲撃もしたが、だいたいは白人に好意的であった。植民者たちは、本国からもってきた食糧が尽きても、インディアンから分けてもらったとうもろこしを栽培して、命をつなぐことができた。
  最初の年の冬、植民者の指導者のひとりジョン・スミスは、川をのぼって探検中イソディアンに捕えられ、首長の前で処刑されかかった。このとき、首長ポーハタンの娘ポカタソスは、身をよこたえたスミスの頭にからだを投げだして父に命ごいをL、スミスを救ってやった。
 三年後に、新しい植民者がジェームズタウンにやってきた。そのなかのひとりジョン=ロルフと、二〇歳をこえたばかりの美しいポカタソスは愛しあうようになった。ポカタソスは教会で洗礼を受け、レベッカという洗礼名をあたえられたあと、ロルフと結婚した。
 インディアンは、その祝福として、かれらにとっても貴重品であったタバコを、植民者にプレゼントした。ロルフはこれをきっかけにタバコの栽培をはじめ、本国におくるようになった。当時、イギリスではスペイン領西インド産のタバコが流行しだしていたから、ロソドン

株式会社は、バージニアに会社直属のタバコ畑をつくらせ、植民者たちにもタバコの栽培を奨励した。
 タバコの葉の乾燥法や品質なとの改良もなされ、バー.ジニア=タバコは、スベイソやオランダに対抗するイギリスのおもな貿易品にのしあがっていった。タバコぎらいのジェームズ一世も、バージニアがタバコ栽培の植民地になるのは黙認した。
 植民者たちにとって最初の数年はなにもうるところのなかったバージニアが、黄金にかわるタバコの富をイギリスに約束するようになったのも、もとはといえばインディアンのおかげであった。
 イギリスのバージニア植民地が、ジェームズタウンを足がかりにして、どうやら格好をつけだした一六一九年の八月末、一隻のオランダ船がやってきた。この船は、その名を「リュベックのキリスト号」といったが、船中に二〇人のアフリガ黒人がおしこめられていた。

黒人たちは、ジェームスタウンにおろされると、タバコ栽培の労働力として農園主たちに売りとぱされた。タバコの栽培には特別の熟練労働はいらない、というわけで、農園主たちは、白人奉公人より安くつく黒人奴隷を、これ以後さかんに買い入れるようになった。
  一七世紀のなかごろまでは、バージニアにつれてこられた黒人奴隷は、まだ、あわせて三〇〇人そこそこであった(一人当りの価格は一六五〇年で二〇ポンド)。しかし、一六七二年に、奴隷貿易を独占する王立アフリカ会社が本国につくられてからは、大量の黒人奴隷がバージニアにおくりこまれるようにたった。
  バージニア州の議会は、一六六一年に黒人奴隷制度を法律でさだめ、黒人奴隷の使用は正当なことであるとした。
一六九〇年には、五万三〇〇〇人の人口のうち、黒人奴隷は九〇〇〇人に達し、つぎの一八世紀には、その数がさらにふえていった。
  今から一〇年あまりまえのことであるが一八七〇年生まれの、北米インディアンのスー族の首長レッド=フォードは、一〇〇年におよぶかれのながい生涯を回想して、つぎのように語った。
 「かれら(白人)は、この大陸に小さなすわり場所をほしがった。われわれはかれらをあわれに思い、かれらの願いを認めてやった。

かれらは、われわれのあいだにすわった。われわれはかれらに、とうもろこしや肉をあたえた。かれらは、そのお返しに、われわれに毒をくれたのだ。」(秋山一夫氏訳による)
抜粋3*********************************

抜粋4*********************************

世界の歴史 アメリカとフランスの革命 中央公論社 五十嵐武士/福井憲彦

ジェイムズタウソの入植者は、イソデノアンからトウモロコシの栽培の仕方を教わって飢えを凌いだ。それにもかかわらず、指導者

のジョン・スミスは、インディアンに対抗してジェイムズタウソを守るために入植者に軍事訓練を行い、食糧不足を補うためにインディ

アンに食糧の供出を強制できるほどに軍事力を鍛えた。

抜粋4*****************************

世界の歴史 アメリカとフランスの革命 中央公論社 五十嵐武士/福井憲彦

ポウアタンの地位を受け継いだポカンタスの弟オペチャンカナウは、植民地人がインディアンの土地を侵略し、イソディアンをキリスト教に改宗させようとすることに危険を感じてい.た。こうして一六ニニ年にポウアタン連合を率いてヴァジニア植民地を攻撃し、人口の四分の一を殺.害した。
イソディアンの戦争は、元来勇敢さを示す儀式の性格が強がったた。しかし、この攻撃には「文明の衝突」にともなう、容赦なさがみられた。辛うじて崩壊を免れた植民地側は、イギリスから人と武器とを補充して反撃の態勢を固め、四四年にオベチャソカナウが攻撃をし.かけると撃退して、それ以降ヴァジニア植民地へのインディアンの脅威は薄らいでいった。

抜粋4**********************************

抜粋5******************************

世界の歴史 アメリカとフランスの革命 中央公論社 五十嵐武士/福井憲彦

植民地のなかでももっとも古くもっとも人口の多かったヴァジニアでは、代議院が抗議運動の主導権を握り、通信連絡委員会を結成して、それを他の植民地と連絡する機関とした。この委員会のメンバーには、パトリック・ヘンリーやジェファソン、リチャード・ヘンリー・リーなどの議員が登用された。燃えさかる炎のような調子で話す雄弁家の'へ!リーは、七五年の議会演説を、有名な「自由を与えよ。しからずんば死を」という言葉で結んでいる。明治の自由民権運動の指導者板垣退助が、暗殺未遂事件に遭遇レて「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだのは、このヘンリー.の言葉にちなんでいると言われている。
 プラターとして黒人奴隷を所有したヴァジニアの政治家が、なぜかくも自由にこだわったのか。.歴史家のエドマンド・S・モーガンはこの点について、次のようなうがった見方をしている。
 ヴァジニア人は日々に自由のない生活がいかなるものかを見ていたので、共和主義者にとって自由がかげがえのないものであることを、とりわけ見究めていたとみることができよう。
 自由を奪われた黒人奴隷の存在が、自由を確保しようとするヴァジニア人の抗議運動を強力に駆り位てる心理的な動機になっていたとすれば、アメリカ革命は重大なパラドックスをはらんでいたと言わざるをえない。.

抜粋5********************************

抜粋6*******************************

物語 世界史への旅 山川出版社 大江一道・山崎利男

バージニアの決議は通信連絡網によって各植民地に伝わり、九月五日から一カ月余、第一回の大陸会議がフィラデルフィアでひらかれた。遠すぎるため不参加のジョージアをのぞく一二植民地の代表五六名が集まった。会議は、植民地人の権利と自治をまもろうとする点ではみな一致し、急進派は、必要たら武力行使も辞さないという考えであったが、その急進派の大部分も、このときはまだ本国からの独立までは考えていなかった。
 ジ一ファソンとともにバージニア代表であった雄弁家のパトリックヘソリは・翌七五年三月、植民地協議会で民兵の訓練強化と防備体制の確立案を提出した。本国との和解と平和の道をもとめる保守派に反対されたヘンリは、トランペットのような声を声をはりあげてさけんだ。もはや希望の余地はまったくなく、自由になるには戦わなければならないのだ、と。そしてつぎの有名な文句がはかれた。

「鉄鎖と奴隷化の代価であがなわなれるほど、生命は高価であり、また、平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、かかることはやめさせてください。わたしは他の人がいかなる道をとるかは知りません。しかし、わたしに関するかぎり、わたしに自由をあたえてください、そうでなかったらわたしにと死をあたえてください。Give me liberty,or death!」(中島健一氏訳による)

翌年、独立戦争の火の手マサチュセッツであがった。**********************

これが、その後ハ年つづく独立戦争の発端となった。

抜粋6*********************************

上記からいえることは、アメリカのいう自由とは、自分たち、白人だけの自由、自分かってな論理、自国さえよければよいという自由から始まっているという事実がわかります。

アメリカの自由の正体について、事例を挙げていきます。

抜粋7********************************

物語 世界史への旅 山川出版社 大江一道・山崎利男

大韓独立万歳

だが、ウィルソンのいう民族自決は、徐椿が見ぬいたとおり、「表面上の言辞」にすぎなかった。アメリカ政府は、民族自決の原則は、東ヨーロッパの領土問題にかぎって適用するもので、戦勝国がわの植民地問題にはあてはまらないとし、パリ講和会議に参加しようとした在米朝鮮人の民族代表に、旅券をだすことを許可しなかった。

抜粋7*****************************

抜粋8********************************

第四の国難 日本崩壊の地鳴りが聞こえる 扶桑社 前野 徹 

平成七(一九ハ五)年の夏、翻訳家の足羽雄朗氏が、東池袋公園を歩いていると、A級戦犯の処刑場跡を探しているひとりのアメリカ人に出会った。彼は、ウェン・コーエンと名乗り、職業は詩人だという。ハイスクール時代、太平洋戦争について学び、日本が一方的な

侵略国だと教えられ、自分でもそう信じていたが、大学に入って図書館でたまたまアメリカ人の歴史学の権威、チャールズ・ピアード博士の『ルーズベルト大統領と第二次世界大戦』を見つけて読み、真相を知って目の覚めるような思いに囚われた。

ルーズベルト大統領が勝手に戦争を仕組み、日本に押し付けたことを知り、仰天の思いであった。アメリカが無実な日本の指導者を処刑してしまったことに対し、一アメリカ人として心より日本人に詫びたい。日本に行ったら、是非とも処刑場跡を訪れ、処刑された人々の霊に詫びたいと思っていたが、今日それが実現できて、大任を果たした思いである」とコーエン氏は足羽氏に語り、記念碑の碑文について説明を求めた。
 足羽氏が英訳すると、彼は呆然として「独立国日本がいつまでもアメリカに遠慮し、このように卑屈な碑文を後世に残すことは全く恥ずかしいことではないだろうか。私が日本人ならこう書きたい」と、その場で次のような詩をしたためたという。

「ああ、アメリカよ、汝は法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョウージ・ワシントン、アブラハム・リンカーン、今や黄泉の国にて汝の非道に涙す」と。
 そして、コーエン氏は「先の戦争は決して自本の復路戦争などではない。にもかかわらず、アメリカは東京裁判を行い、日本の指導者を侵略者として処刑した。このことは、公正と正義を重んじたアメリカ建国の祖、ワシントンやリンカーンの精神を裏切る行為だ。日本はアメリカに反省を求める形で碑文を書く.ぺきではないか」と語ったというのである。

抜粋9******************************

抜粋10**********************************

強制収容を指揮したデウィット中将は、スティムソン陸軍長官に宛てた報告書で、太平洋戦争の本質をズバリ指摘している。
アメリカが戦っている敵は日本国ではなく、日本人種であると。
「戦時中、日本兵は、アメリカ兵捕虜を虐待した。満足に食料も与えず、劣悪な環境の中で重労働をさせた」などという日本の軍部の非人道的な行為ばかりが戦後、強調されている。しかし、実態はまるで逆だ。確かに日本兵の一部には、捕虜に対して残忍な行いをした者がいただろうが、その大半が国際協約に乗っ取って、自分たちの分を減らして乏しい食糧を配給し、アメリカ兵捕虜に分け与えている。かたや米軍の日本兵捕虜に対する残酷な扱いについては、まったくといっていいほど語られていない。
 金子教授は『チャールズ.・A・リンドバーグの戦時日記』を引用して、その実態を暴いている。リンドバーグ大佐の戦時日記には米軍の日本兵に対する目を覆わんばかりの残虐行為が赤裸々に描かれている。
「わが軍の丘土たちは日本兵の捕虜や投降しようとしている者を射殺することを何とも思っていない。彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、それらの行為がほとんどみんなから大目に見られている」

 ニューギニアでは二千人ほどの日本兵捕虜に機関銃が乱射された。オーストラリア兵のパイロットたちは飛行機で日本人捕虜を輸送中、山の上に突き落としたので、途中で「ジャップたちはハラキリした」という。

抜粋10******************************

抜粋11******************************

ドイツ降伏を報じる紙面はおおよそ次のような内容だった。

「われわれは勝利した。ドイツ人は優れた民族であって、ナチスという虚妄の虜になったために戦争を起こし、世界中を荒らしたが、とにもかくにも戦争は終結した。もし、ドイツ人がナチスを排除するなら、われわれは本来の友人である彼らに思い切って再建の手を差し伸べ、その復興を援助しよう」

抜粋11*********************************

抜粋12********************************

世界の歴史 自立へ向かうアジア 中央公論社  狭間直樹/長崎暢子 から抜粋

 山東問題をとりあげたパリの講和会議で、顧・王の両全権は、中国の参戦によりドイツとの全条約は破棄され二一ヵ条は失効したとして、山東権益は直接中国に返還されるべきだと主張した。
 ウィルソンを信奉する「ヤング・チャイナ」としては当然の主張をしたまでだが、かれら首席全権以上に活躍できたのは、やはり異例の統一代表団を送るにいたった国内情勢の背景があれぱこそのことだった。
 一方、日本は二一ヵ条の有効を主張して山東権益の譲渡を要求した。その根拠として、既述の「欣然同意」の文言が持ち出された山東問題については、問題なくすでに解決ずみだと、日本は主張したのである。
  会議をとりしきったのはアメリカ・イギリス・フランスの三大国だった。それも、アメリカはウィルソン大統領、イギリスはロイド・ジョージ首相、フランスはクレマンソー首相が、じかに会議に臨んでいるのである。中国にすれば、公理の実現を講和会議に期待して当然、のお膳立てだった。
  しかし、中国の主張は通らなかった。英仏両国は日本との密約に縛られていたし、アメリカも日本の言い分を呑んだ。

ウィルソンにすれば、創立されるべき国際連盟に日本の協力を得るための取り引きだった。四月三十日の会議で、ドイツの山東権益は日本が継承すると決まった。
結局、列強間の利害調整が優先させられたわけだが、しかし、それは公理の立場からは”筋違い”以外のなにものでもなかった。一四ヵ条を唱えたウィルソンのリードする会議で、植民地中国にたいする「公理」は踏みにじられ、大国日本の「強権」がまかり通ったのである。この決定がいったん中国に伝わると、未曾有の民族運動が勃発した。五四運動である。

抜粋12**********************************

抜粋13*****************************
第四の国難 日本崩壊の地鳴りが聞こえる 扶桑社 前野 徹 

アメリカの自由について核心にふれた文

 自由を標榜するアメリカは、アメリカンドリームの国だというイメージがあるのだろうが、実態は一部の白人種だけが牛耳る、階級社会である。ヒスパニックは、貧困のどん底にあえぎ、社会での道も自由には開かれていない。それが見えにくいだけで、アメリカの自由とは、自分たちの国益に貢献しない者はどこまでも堕ちてもよい、という自由なのである。

抜粋13********************************

Copyright(c)2004.1 Planet,All Rights Reserved.