8−11  B国民のみなさまへ 戦前の教育を受けた人
 

現在は2004年、太平洋戦争が始まったのが1941年12月、終戦が1945年8月。

前線にいた日本軍兵士(2004年−1945年+17歳〜2004年−1941年+23歳)

<76歳〜86歳>は、人生80年の中で、この世を去りつつあるのですが、日本の現状を見たうえで、あの戦争はなんであったか。戦時中死んでいった戦友、英霊に対してどのような顔でいられるのでしょうか。

そこで、2001年11月に発刊になった 特攻の真実 命令と献身と遺族の心 著者 深堀 道義 氏の言を抜粋して引用する。

抜粋1****************************

日本軍の指導層は、いまだかつて経験しなかった「敗戦」という問題に、正面切って対処しなければならなかったとき、定見のないまま、あるいは哲学のないまま、ただつき進めばなんとかなろうという考えで、その間における一つの手段として、若者たちの憂国の純情・熱情に頼って、その「何とかする」ことを最後まで続けてしまったのであった。

 昨今のバブルの崩壊は、とりもなおさず財政・金融の破綻を来すことになる。官僚にしても、企業家にしても、未知の分野である。山一証券も長期信用銀行も消えた。「飛ばし」をやっていれば、いつかは破綻がくることは解っていても、何かやっていれば、何とかなる、何とかなると思っているうちに、何ともならなかった。

 半世紀前も同じであった。何とかなると思い、何かをしていたが、何ともならなかった。

抜粋1**************************

 

抜粋2***************************

わが日本は、19世紀末に清国に勝ち、20世紀初頭の日露戦争にも勝利を収めて、世界列強の一員に加わり、帝国主義国家の競争に参加した。

 戦後の歴史家の中には、このことを日本の侵略主義の表われであるとするものも多いが、これは間違っている。日清戦争後に日本がさらに強国になるべき選択を行わなかったら、日本は西欧列強のいずれかの国の強い影響力の下に存在しなければならなかったに違いない。19世紀から20世紀にかけては、弱肉強食の時代であり、どこの国が世界を制するかの闘争の世紀だったのである。

抜粋2**********************************

抜粋3**********************************

 この19世紀から20世紀の間、二国間においての紛争は各地でおこって起こっていたけれども、それはこの大きな動きの中の一地域での現象であるから、それのみを捉えて論ずると、往々にして正確な歴史認識から外れてしまうことになる。日中間の問題もこの世界の大勢の中でみなければならないのである。日本の中でも、又は日中間にあっても、歴史認識の相違が事毎に持出されるのは、大きな動きの中で見るのか、局所の動きで見るのかによるのである。

抜粋3*********************************

抜粋4****************************

 だから満州事変以来の戦は、現人神の天皇が、世界を平和にするためになされるものなのであるから、「聖戦」であると国民は教えられ、その聖戦に赴くために軍人になり、徴兵で兵士となるのは、天皇陛下のための神聖で名誉ある使命であると青少年は解釈していた。人間誰しも歳をとり経験をつんでくれば、批判力もついてくればついてくるであろうが、20歳前の青少年たちは純粋な心にそのように叩き込まれれば、そう信じてしまったのである。

  政治や軍事の中枢にいた者たちはそんな純粋な考えは持っていない。天皇に対する今まで述べたようなことは、国民を動かすためには用いるが、本人たちは自分の職務のために、あるいは名誉や野望のために、頭脳を使っており、天皇に対しては忠誠を尽くす態度を示してはいても、意識的か、そうではないかの違いはあっても、自分たちの行動を正当化するために天皇を利用しており、ある場合にはないがしろにさえしていたのである。

 したがって八紘一宇も、天皇の意志とはかけ離れた解釈の下に、列強間の競争に加わった日本が勝利を求めて国民をを結束させる目的に使用された一つのスローガンであったと見ることができる。

 他国の領土内に侵入し、そこを占領して物と人とを自国の利益のために用いることを「侵略」と呼ぶとすれば、列強のレースに加わった八ヶ国は、すべて侵略を行った国なのである。第二次大戦後、敗者側のわが日本や独伊のみが侵略者とされ、英米等の勝者側のみを正義の戦士のように称するのは、甚だ不合理な言い分である。

  百の国があれば、百の正義があると言われる。戦争が起れば必ず勝者と敗者が生まれる。そして勝者は常に善であり、正義なのであって、敗者は常に悪であり、不義とされるのは、古今東西変ることのない原則である。この原理を弁えずに、自らわが国は悪い国でしたと言って、自虐的になったのが、わが日本人であり、これは世界を知らない島国の民が、初めて敗けて前後左右

が分からなくなったからである。勝ったり負けたりの経験を積んでいる西欧や中国の人々から見れば、物笑いの種なのである。

 各個事象については、謝罪することはあっても、戦争に敗けたそのことについては、決して誤ることはない。

抜粋4****************************

 

抜粋5*******************************

その真偽はいまだに明確ではないが、真珠湾攻撃で日本に先に手を出させたのは、時の米大統領ルーズベルトの深謀遠慮によるものであったという説などは、それが真実であったとすれば、日本はアメリカの策略に引っかかって、泥沼の日支事変に足を取られながら、対米開戦を強いられたのである。一部の日本人が、開戦の責任はアメリカにあって日本には無いと言っているのは、その策略、謀略にうまく乗せられてしまった愚かさを、自ら認めているようなもので、恥ずかしくなるような論説である。

 アメリカは、日本軍の真珠湾の騙し討ちに対する敵愾心と、民主主義の擁護という大義名分をもって参戦することができたのであり、策略であれば実に天晴れといえる策略である。

 戦争を行うには、大義名分を明確にすることと、強い敵愾心を自国民に持たせることが極めて大切なのである。

抜粋5****************************

抜粋6****************************

*******明治以来の白人崇拝の潮流がそう簡単に失われるものではなく、英米人に対しての強烈な敵愾心が無かったのは、前線で現実に戦った軍人たちが、戦後になって述べた感想なのであった。

 それに引き換え、英米側には自由主義、民主主義を守れという大義名分と、真珠湾を騙し討ちした日本、人間ではない無気味な動物の日本人、JAP!という敵愾心を与えてしまったのである。

抜粋6****************************

抜粋7**********************************

西欧諸国は、長い間のたび重なる戦争を経験して、勝ち方も負け方も知っているのであるが、極東の日本は徳川時代の鎖国政策もあって、外国との戦争のやり方を知らず、特に外国に負けた場合のことを知らなかったので、戦後処理をどうするかは放心状態のまま、占領軍アメリカの意のままに動かされたのが、20世紀後半の日本だった。

抜粋7**************************

考察

 明治維新から満州事変が始まる前までの日本人は、指導層(国家中枢部)を含めて、アジアの解放、人種平等主義はわが大和民族の持っていた念願であり、国是であった。ところが、満州事変から太平洋戦争終戦までの日本の指導層は、自分の職務のために、あるいは名誉や野望のために、八紘一宇の思想のもとに、国民を突き動かしていったのである。前線にいた若者は、アジアの開放であると、西欧列強の植民地支配、搾取からアジアの人たちを解放するのだという一念で、戦い、辛酸をなめ、命を捧げ、孤島に、空に、海に散っていったのである。戦後からは、GHQの施策、迎合する輩のもと、上も下も、個人主義にはしり、自分さえ、自分のまわりさえよければよい、他はどうでもよいという利益誘導型の価値観に国民を洗脳させてしまっているのである。例えば、戦後の政府の検定教科書の文言、”侵略” ”日本は悪い”という図式の言葉があります。20歳前の青少年たちは純粋な心にそのように叩き込まれれば、そう信じてしまったのである。自分さえよければよい。自分が悪いのは、親が悪い。親は親で、子供が悪い。自分が頭が悪いのは、教師が悪いからだ。保護者は、保護者で、何でもかんでも、学校をつきあげる。自分に職がない、お金がないのは、役所が悪い。役所、わしらのためにしっかり働け。お金をよこせ。予算を使え。橋をつくれ。道路を作れ。建物を作れ。土地を開発せい。議員は、議員でそこらじゅうに、電話をかけたり、あらゆる手段を使って、横車。議員に群がる人たち、わしらのために何とかしてくれ。票欲しいやろ。・・・・・・ 

気がついたら、多大な負債、GNPの何倍にも及ぶ債務のため、国家財政、自治体財政の危機。

年金そのうち、無くなるんでは。税金があがり、庶民困る。

・・・・・・・・・・・・気がついたら、多大な労務。学校、役所には、実行不能にも及ぶ仕事の山、山。残業あたりまえ。夜中11時まで、電灯が灯る。家に帰っても、仕事の山。おかげで、教職は、全職種、5番目の過労の職場。それほんと? ちょと待て?!

 そのかげで、うごめく人たち。電力会社等の民間参入が難しいところ、政府系金融機関、日銀のような半官半民のところ。・・・・・・。・・・・・・。・・・・・・。

わたしのところ忙しいといっていれば、世間の目はこっちに向かない。つぶれないし、楽チン。ずっと聖域でいてください。聖域いたるところ、隠す職場、探すことしない政府。

それでは、続けて抜粋する。

抜粋8*******************************

神雷部隊の飛行隊長野中五郎少佐が、いよいよ出撃の決まった時、「これは湊川だよ」と言って飛び立って行ったが、この湊川の意味戦後の教育を受けた人にはわからない。********************

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「湊川」というのは、楠正成が足利尊氏の大軍と戦った「湊川の戦」の故事をいう。***************************

  であるから、「湊川」という意味の中には、君側の公卿たちが政を誤っても、武士たるものは、天皇のために一命を捧げねばならないという意味も含められているのである。

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戦局がこうも悪くなったのは作戦の失敗、生産力、技術力の不足等々、国の政治をあずかる上層部の責任であり、その無策、失策からきた敗勢を挽回しようと青年たちの肉体を弾丸にかえようとしている。しかも今日の出撃も絶対に成功の見込みがないのに、五航艦長官はそれを命令した。だが、我々は征く、こういう思いが、とっさの「これは湊川だよ」の一語になったのであろう。

 抜粋8****************************** 

 

抜粋9*******************************

 例えば、バブル期へ入っていったころ、株価も地価も右肩上がりの勢を続けていた。恐らく全日本人が、政界、官界、財界の音頭とりに乗って、総投機屋、総地上げ屋のような有様になっていた。誰もが永久に株と土地の値上りが続くような錯覚に陥っていた。冷静に考えるならば、拡大が永遠に続くことなどは物理学的にみてもあり得ないことは十分に理解していても、そう動いてしまっていた。

  開戦劈頭、日本海軍はハワイ奇襲に成功し、マレー沖では英国の戦艦二隻を撃沈し、陸軍のマレー半島進撃も極めて順調に進み、その勝勢は永久に続き、中国大陸の戦線のように皇軍は敗れることはないとの思いを抱いてしまった。

  そして恐らく当初の作戦計画にないような、ミッドウェー島の攻略や、ガダルカナル島のソロモン方面への進攻を行ったのである。ミッドウエーとガダルカナル、それは敗れる日本軍を象徴する戦いであったことは、読者のすでに知られている所と思う。

  日本は、世界最強のアメリカ、イギリスと戦っていたのである。そのために必要な戦備を整えるという思考は、緒戦の思わざる勝利によって頭の中からぬけてしまっていた。

  シンガポールを占領した日本がまず行なったのは、昭南神社(占領後シンガポールを昭南と名づけた)を建てることと、料亭を進出させることであった。「勝って兜の緒をしめよ」の教訓を捨て去り、兜だけでなく鎧までも脱いでしまったのである。

  これは、バブル期に、企業や地方自治体が競って土地を買い争ったのと同じである。先が見えないで浮かれてしまう。その時に計画性を失う。昔も今も全く同じであるといってよい。

 事の真偽は解らないが、オランダ領インドシナ(今のインドシネシア)の攻略までを順調に終えた時、ある参謀が東條首相に、早くこれまでに占領した地帯を固める政策をとるべきであると進言したところ、東條は「こんなに勝ち進んでいる時に、何を馬鹿をいうのだ」と言い、この参謀は左遷されたとか。

抜粋9*******************************

 

抜粋10*******************************

当時の軍首脳部の欠陥は、厳密な数字データによる分析をしないことで、部内においてさえ秘密ということで、部内においてさえ秘密ということで誤った情報が伝えられる。これでは立てた計画それ自体が無意味なものになる。現在になって情報の開示の重要性がいわれるようになったが、当時の軍部では、良い情報は流しても、悪い情報は内部においてさえ秘密とされたのである。

  その結果として現実を直視せず、そのうちに何とかなるであろうととの意識に支配されてくる。現在の金融機関の不良債権処理の問題と同様である。不良債権の処理をしなかたり、「飛ばし」をやれば、早かれ遅かれ大きな反動が襲ってくるのは分っているしかし、対応を先送りして何もやらない。何とかなるという淡い望みを持つ。淡い望とは地価と株価が再びバブル期のように上昇するかも知れないのを待っているのである。

  皇軍では神不滅の信念から、かならずや神風が吹いて、日本は救われる。それまでの時間を、特攻で支えようという考え方である。平成では地価と株価の再上昇が訪れなかったように、昭和20年では神風はとうとう吹かなかったのである。

抜粋10*******************************

抜粋11*******************************

海軍では開戦劈頭、ハワイを空襲する計画について、空母六隻の機動艦隊の司令長官を誰にするかという問題があった。この空母六隻からなる第一航空艦隊の司令長官を誰にするかという問題があった。

 この空母六隻からなる第一航空艦隊の司令長官には、海兵36期の南雲忠一中将が、艦隊が編成された昭和16年4月10日に任命された。南雲中将はずっと水雷畑を歩き、航空関係の経験はなく、一航艦の長官には不適任ではないかとの声があった。

 航空作戦には、海兵37期の小沢治三郎中将が通じているいう海軍部内の声はかなり強かった。南雲中将はずっと水雷畑を歩き、航空関係の経験はなく、一航艦の長官には不適任ではないかの声があった。航空作戦には、海兵37期の小沢治三郎中将が通じているという海軍部内の声はかなり強かった。小沢中将も水雷畑を進んできたが、昭和14年11月、少将になっての三年目に第一航空戦隊の司令官に任命された。一航戦は空母「赤城」、「加賀」の二隻を基幹とする戦隊で、小沢中将(昭和15年11月に中将に進級)は一年九ヶ月司令官の職にあり、空母部隊の運用の手腕を買われていた。

 37期の小沢中将をもし、もし第一航空戦隊の司令長官につけるとすると、その序列上、一期上の南雲中将をつける役職はなく、退役させねばならなくなる。そこで航空作戦には全く経験のない南雲中将を一航艦の司令長官に任じたのであった。

  勿論、司令長官には参謀長以下数名の参謀が補佐しているのであるから、長官自身の経験の多寡はさして問題はないといえるけれども、決断を下すのは長官なのであり、筆者も南雲中将を一航艦の長官に据えたのは、ミスキャストではなかったかと思うのである。

 その欠陥の表われた一つは、ハワイ空襲で第二撃を加えず、ただの一撃だけで引上げてしまったことである。「蒼龍」、「飛龍」の二航戦司令官山口多聞少将、「翔鶴」、「瑞鶴」の五航戦司令官原忠一少将は、第二次攻撃隊の発進を求めてきたが、南雲長官はその具申を受け入れなかった。戦後評価では、第二次攻撃を加えなかったことが失敗だったのは定評となっている。

 その二は、決定的な大敗、戦争の帰結を左右したような敗戦を喫した、ミッドウェー海戦の指揮である。

 硬直した人事が、戦時という重大時機に、適材適所という人事の原則を無視し、序列という一番無難な手段をとったツケが、開戦早々から表れたといってよいであろう。これだけの敗戦、四隻の空母を全部沈められるという失敗を演じながら、長官の 南雲中将も、参謀長の草鹿少将も、更迭もされずに引続きその職に止ったその愚かな人事についてはすでに述べておいた。

抜粋11********************************

抜粋12*******************************

 参謀本部作戦課は、全陸軍の中枢であり、その課員はエリート中のエリートであった。そして作戦課員になれるのは、陸大の恩賜組(優等生、恩賜の軍刀を頂いた)で、かつ幼年学校出身者という不文律があった。幼年学校で学ぶ外国語は、ドイツ語、フランス語、ロシア語のどれかであった。英語は中学校から士官学校に入学した者が、語学の時間には幼年校出身者と分れて修得したのである。

 だからイギリスやアメリカなど英語圏の国の大使館附武官となり、アメリカやイギリスのことをよく知る者が、参謀本部の作戦課には居ない、何としても奇妙な硬直した人事行政である。これでは戦争の初めから、敵を知らず、己を知らずして戦ったのであるといえよう。

 人事面の陋習は何も陸軍に限ったことではなく、海軍のもあったし、いや現代の官僚社会にも存在している。ある省の事務次官に誰かがなると、その同級生たちは皆退官することになっている。それは高級官僚たちは、同年次及びそれ以下の者の命令を受ける立場にはならないことを意味している。

抜粋12********************************

続けて、書籍 第4の国難 日本崩壊の地鳴りが聞こえる 著者 前野 徹 氏の言を抜粋して引用する。

抜粋13********************************

終戦約一週間前の昭和二十(一九四五)年ハ月九日、ソ連は突如、日ソ中立条約を一方的に破り、日本に宣戦布告、ソ連軍が大挙して満州になだれ込んだ。

 ソ連兵たちは、軍人はおろか日本開拓民に対しても強姦、暴行、殺人、略奪と非業の限りをつくし、八月十四日には、内蒙古の葛根廟の原野で日本開拓移民の避難民がソ連軍の猛攻を受け、婦女子約一千名が殺害されるという痛ましい事件も起こっている。
だが、満州でのソ連軍の狼藉にも増して、その悲惨さの規模という点で許し難いのは、シベリア抑留という暴挙である。
;ソ連は日本がポツダム宣言を受け入れた八月十五日を過ぎて、戦闘状態を解いて、停戦、降伏をした関東軍の丘土、並びに民間人を大量にシベリアに連行、長期にわたり抑留し、過酷な労働に従事させた。

抜粋13*******************************

 

抜粋14*****************************

満州北部の奥地に入植した満蒙開拓移民団、あるいは義勇少年隊として移住していた人たちはみんな、多かれ少なかれ筆舌に尽くしがたい苦難の連続を味わっている。戦後の平和な生活に浸りきっている戦後世代の日本人には到底想像もつかない修羅場をくぐり、ある人は生き残り、ある人は命を落とした。*********************************

逃れてきた日本人難民が集まっていた奉天市の国民学校の廊下の壁には当時の悲惨を象徴する落書きがあった。
「殺すな、捨てるな、呉れろ、売れ」
当時、絶望した難民の中には半狂乱の状態になり、子供を殺したり、捨てたりする親が後を絶たず、多くの幼子たちが犠牲になっていた。この落書きはそれを戒めたもので、すなわち、「我が子を殺したり、捨てたりするのなら、現地の人にもらってもらうか、売れ」と勧めているのである。なんと凄絶で痛ましい言葉だろうか。
この時、捨てられたり、もらわれたり、売られたりした子供たちが現在の中国残留孤児である。

抜粋14*************************


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