8−10 幕末から明治維新へ

 

 明治維新は世界史的に流血をほとんど見ない政権移譲といえ、これほど国内の混乱も

少なく、海外からつけいる隙をあたえない革命があっただろうか。

 幕末から明治維新への外圧として有名なものとして、ペリー来航があります。

そこで、いくつかの幕末から維新に関する書籍を抜粋して引用する。

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日本の近代 1開国・維新 1853〜1871 著者 松本 健一 1998年

・・・・ペリーが嘉永六(一ハ五三)年におこなったことは、純然たる砲艦外交だった。そのペリー提督が日本降伏用の「白旗」さえ贈ってよこした砲艦外交のあとで、幕府はフィルモア大統領の「親睦」と「交易」、つまり「開国と通商」を要求する国書を開陳してみたわけである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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 もちろん、そうはいっても、実際に嘉永六年に戦端が開かれていれば、日本は四隻のペリー艦隊のまえに、無惨にも敗北していたろう。幕府はすでにふれたように、まずアヘン戦争における大清帝国の敗北を想像し、その歴然たる事実認識のもとに、アメリカ国書の受取りを決めたのだ。そして、そこから<幕末>という時間がはじまったのだった。

 日本がもし戦端をひらいたのなら、アメリカの四隻の軍艦のまえに無惨にも敗北するだろう、一瞬のうちに見抜いたのは、幕末第一の開国思想家だった佐久間象山である。象山は六月三日の午後十時すぎ、江戸詰めの浦賀奉行である井戸石見守弘道にぺリー艦隊来航の第一報が届くと、すぐ浦賀に駆けつける決断をした。

  象山のもとにこの情報を伝えたのは、かれのの友人で、幕府の勘定奉行(大蔵大臣)を

つとめていた川路聖謨である。川路は海防係を兼ねていた。かれはこの情報こそ海防策の先駆者である象山に伝え、その意見を質したい、と考えたのである。かくて、象山は老中の阿部正弘などとほぼ同時に、黒船来航のニュースに接することができたのである。

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 浦賀に駆けつけてきた武士は、かくて佐久間象山四十三歳、小林虎三郎二十六歳、吉田松陰二十四歳、それに津田真道二十五歳(いずれも数え)をはじめとする、象山師弟ばかりであった。

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 一方、かれらの師の象山は、松陰の下田踏海事件に連座して松代での九年におよぶ蟄居生活を送り、その後、一橋慶喜の懐刀として復活した。しかし、元治元(一ハ六四)年、禁門の変を前に、天皇の彦根への遷座ひいては江戸への遷都を計画して、河上彦斎(熊本藩士)をはじめとする長州派尊攘派志士の手で暗殺されてしまうのである。

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なお、浦賀で象山師弟にあった松陰は、かれらと和戦の得失を論じている。このとき、若き

松陰は戦の義を主張し、ペリー艦隊に乗り込んで日本刀の切れ味をみせてやりたい、といった。だが、象山の弟子たちでも「打払」を主張するのは「十に七ハ」で、全員の意が同じくはならない。

 第一、師の象山じたいが、目前の敵に勝つこと(打払)に心を奪われてはならない、といった。いま戦っても勝てないことは明らかだが、それ以上に長期的な戦略をたてることがより重要だ、いうのである。

抜粋1**********************************

上記のことからわかることは、国難において大事な行動を示唆している。

1 日本がもし戦端をひらいたのなら、アメリカの四隻の軍艦のまえに無惨にも敗北するだ   ろう、一瞬のうちに見抜いた洞察力

2 ぺリー艦隊来航の第一報が届くと、すぐ浦賀に駆けつける決断をした現実を直視しよう

  という行動力

3 師の象山じたいが、目前の敵に勝つこと(打払)に心を奪われてはならない、といった。  いま戦っても勝てないことは明らかだが、それ以上に長期的な戦略をたてることがより   重要と見抜く洞察力

抜粋2**********************************

世界の歴史 25 アジアと欧米世界  中央公論社 著作 加藤祐三/川北 稔 1998年

 権力の混乱状態のなかでは、権威が権力の上位に立って機能した。幕藩体制が揺らぎ、徳川将軍が天皇に「大政奉還」する。それが幕末から明治維新(一八六八年)にかけての、政治変動の核心であったと考えられる。
 権威が上位に存在したため、権力交代の焦点は、権威を誰が確保するかにあった。この最大の焦点をめぐっていくつかの政体論が模索されたが、それは政策論争にととどまった。権力交代にともなう内乱は、きわめて短期間で終わった。
権力混乱期が長期化すれば、外国からの干渉は一般に強くなる。徳川政権から明治政権に移るさい、対外関係の象徴である条約(日米和親条約と五カ国との通商条約)には、まったく手をつけず、そのまま継承して、外患を最小限にとどめることができた。

江戸時代の骨格

徳川政権は見事な終章を演じ、舞台から下りた。最小限の混乱、蓄積した物的基盤の維持、対外関係の保持、さまざまな面で円滑な政権交代を行った。新興の薩長勢力や明治政権が知らない部分を補って、長期政権の最後の仕事をなしとげた。

 

抜粋2**********************************

抜粋3**********************************

世界の歴史 アジアと欧米世界 中央公論社 加藤祐三/川北 稔 1998年10月

「最適の判断」
十九世紀という戦争と植民地化の時代、鎖国を解いて開国する条約交渉の過程で、幕府は、この現実と国際法とを、どこまで理解していたのだろうか。彼我の戦力を冷徹に分析して「避戦論」に徹し、敗戦にともなう「城下の盟い」を回避するため、外交に最大限の努力を払った。そこには海外情報の入手・分析・判断という、地道な積み重ねがあった。
 これまで述べてきたように、アメリカ側には、戦争によって条約を締結する意図も、そのための政治的・物理的条件もなかった。よく言われる「アメリカの軍事圧力説」は根拠がない。アメリカ側の戦争発動への拘束のほうが、むしろ強かったと言える。
 そうなると、ひとつの仮定だが、もし幕府が正しい判断をせず、文政令のような「竹槍戦法」
を採用していたとすれば、ペリー艦隊も自衛のために発砲をし、それに硫てた幕府がすすんで敗戦条約を結んだ可能性も皆無とは言えたい。鎖国を解くタイミング、国内世論の説得、条約交渉での的確な主張、賢明な判断など、幕府の外交が勝利したのである。近代日本はこうして出発した。

抜粋3**********************************

抜粋4**********************************

世界の歴史 25 アジアと欧米世界  中央公論社 著作 加藤祐三/川北 稔 1998年

幕藩体制の特色

 全国の総石高は約三〇〇〇万石であり、そのうち幕府の直轄領は四〇〇万石あまり(一割強)にすぎない。その財政収入をもって行政経費を維持するため、幕府の財政基盤はたしかに脆弱だったと言える。これを補ったのが軍役制・参勤交代・普請役などである。

 幕府と各藩(大名)が協調関係にあった長い期間にわたって、各藩の安定がそのまま幕府の安定を意味していた。政治、財政、軍事の各方面において、幕府の安定は各藩の安定の

上に立っており、その逆に各藩の安定も幕府の安定のうえに立っていた。この幕府と諸大名

の関係は、見事な「地方分権」の姿といえる。

抜粋4**********************************

抜粋5**********************************


世界の歴史 25 アジアと欧米世界  中央公論社 著作 加藤祐三/川北 稔 1998年

帝国主義の時代
「大不況」
 一八○○年にヨーロッバ系の白人が支配する土地は、おおまかにいって地球上のほぼ三五パーセントにすぎなかったが、第一次世界大戦のはじまる一九一四年になるとこの数値は八四パーセントになった。白人による世界の支配が、いかに劇的に進行したかがわかる。西ヨーロッパとアメリカ合衆国を「中核」とした近代世界システムが、ほ」ほ地球全体を覆っだということである。

抜粋5**********************************

上記の抜粋からいえることは、幕末から明治維新にかけて、白人の支配から逃れ、他の

アジア諸国が経験した屈辱的な植民地(立法、行政、司法の喪失)や敗戦条約(賠償金、領土割譲、司法・行政の一部喪失)から唯一逃れ、交渉条約国(司法、行政の一部喪失)から

出発したものの、アジア唯一の独立を確保したのです。

幕末から明治維新にかけてつき動かしたものは、自分を顧みず、日本の将来を憂い決起した若者でした。幕末の佐久間象山をはじめとする先人がレールを敷き、そのレールに自分

たちの利益を捨ててまで突き進む若者がいたのです。その若者が明治の土台を築きあげたのです。そのつき動かす精神的支柱になったのが江戸時代の儒学だったのです。

 幕末から明治にかけての先祖に対して、感謝しなくてはいけないし、この日本の世界史への登場により、アジア、アフリカの独立へのきっかけを与えたのは、まぎれもない事実です。

 その恩恵を考えれば、アジア、アフリカ他有色人種の人たちは日本の先人に対して深い感謝をしなくてはいけないのです。それが人間としてあたりまえのことなのです。

 

 

 



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