3 教育の失敗


 現在生きている社会で生活に必要な知識・技術・考え方・態度等を学ぶ必要から、教育が生まれた。そこで必要な学力とは、現実からどのようにして情報を入手し、その情報を分析し、他の情報と結びつけたりしながら、新たな情報を獲得し、意志決定するこであった。 
<図3>
 しかし現在までの受験に代表される教育で重視されてきたものは、情報をいかに処理するか、すなわち、書かれた内容を理解、暗記していき、いかに論理的に考えていけるかを大切にするものであり、現実に直面し、いかに思い、考えるといった情報を入手することは置き去りになっていると言っても過言ではない。そういう教育で輩出された人材は、学歴が高くなるほど、受験難関校出になるほど観念的に考えることに強く、現実を軽視する傾向が強い。その主義・主張は、筋道が通っており、なるほど論理的であるが、その最初の出だしの、いかに現実と向き合うか、また哀しく感じたり、新たな発見に驚いたりといったいかに考えいかに思うかの部分がおろそかになっていることから、現実感の乏しいものになっている。
 教育において重要なポイントは、現実を直視するにあたり、いかに捉えるか、いかに思うか。
その核となる考え方として、感謝と思いやりという基本的価値観をもつことである。いかに論理
的に、整合的に、表現豊かに、理知的に考えたとしても、「自分さえよければ」「今がよければ」
「所属している組織さえよければ」という考えでは、社会の発展は望めないし、展望は開けない
どころか、社会の混乱と道徳の退廃を招く。
 学歴信仰が観念的思考を重視させ、何でも観念的に解決しようとする。「これこれはこうあるべ
きだ」「こうあらねばならない」という理念が先にくる風潮が蔓延している。行動においては、まず
じっくり考えてから見に行くということ。まず考えることが先であった。この風潮、傾向は、学会を
頂点に政界、官界、教育界等、学歴の高いところを中心に蔓延している。これを教育の失敗と言
わずして何と表現しようか。この教育の失敗を創りあげに貢献したは、教育系の大学であり、現
場から遊離した研究に日夜励んできた学者であった。教育系の大学の教員は、現場経験がほ
とんどない。あっても付属の学校であり、ほんの稀の特殊な現実しか経験がない。現場経験がほ
とんどないか、特殊な現実しか知らない学者が、観念的に考え、現場から遊離してもあえて目を
つむり意志決定をしてしまったのが最大の教育の失敗であった。
 
Copyright(c)2001.1 Planet,All Rights Reserved.