翌年2月9日 (水)


  情報処理(学年末考査)の模範解答のプリントを見て、疑問に思った丸山先生は午後2時45分に商業科主任の三邦先生に電話した。
「情報処理の最後の問題8ですが、1年間の感想を書かせるのがありますが、どう採点するのですか」と訊いたところ、
「(規定の30点未満の)赤点の生徒を助けるためにあります。何か書いてあれば加算します。 赤点の生徒は、18点を加算する。30点を超える場合は、30点にする。(規定の30点以上の)黒点の生徒は、加算するが、全体の平均を見て、加算する。講座の平均点が高い場合は、加算点が0点も可だし、講座の平均点が低い場合は18点も可です」との内容の返答があった。
  隣に他の商業科の先生がいたので、
「 定期考査で感想を書かせて、平均点を調整するということは、他の学校でもやっているのですか」と訊いてみたところ、
  「(定期考査とは別に)アンケートで書かせたことはありますが、・・・・・・」
  今回のアンケートによる得点調整とは、一体何なのか。講座の平均が低い場合、アンケート調査の採点を高くして、平均点を高くし、講座の平均が高いときは、アンケート調査の採点を低くして、講座ごとの平均を揃えていく方法。生徒にとっては、同じ試験問題でこなしてきて、最後アンケートで得点調整したのでは、頑張っている生徒の努力が報われない。また、頑張っていない生徒に点数を与える材料になっている。また、講座の平均が低いと教科の指導力が問われるので、アンケートの問題を出したのであろうか。
  そう言えば、2年プログラミング(後期中間考査)の成績で、三邦先生の講座の平均が赤点に近く、あまりにも悪いので、三邦先生の講座だけ別に再テストして、それを学事システムにある後期中間考査成績の個所に入力するということがあった。今回のアンケートによる得点調整といい、一部の講座だけ再テストして、これを定期考査に反映したのでは、定期考査の意味があるのだろうか。授業の指導力をどのようにはかるのだろうか。こんないい加減な定期考査及び成績のつけ方でよいのだろうか。「いい加減」と言葉が出たところで「問題の表彰状」のことを思い出した。
  大須磨教頭は、表彰状に規定があったことは十分知っていた。が、責任が追求されるのを嫌い、あえて「規定がない」と全職員の前で、それも公の場である職員会議で、はっきりと言った。人は追い詰められると規定がなくなってしまうのだろうか。間違いを間違いと認めなく、ただひた隠しに隠し続ける。(丸山先生が)土日に学校に出て来ると、いつも大須磨教頭が黙々とパソコンに向かい業務をこなしている姿を見ていた。その姿を見れば誰でもが頭をたれ、感謝こそすれ、追及してはいけないのだろう。しかし、いつから人は間違いを間違いと認めなくなったのだろうか。
  人は、間違いを恐れる。隠すぐらい恐れる。間違いがあってはいけない。間違いがあるとそれから次々と間違いが生まれる。前年度踏襲の組織体にある官庁、教育の世界にあっては前年度に何をやったかが重要になる。昨年度はこうであったから今年度はこうでないといけない論理。それが連綿と続いていく。それを重視しなければ、ときには過労死が起きるぐらいの多種多様な要求、業務の奔流に流されてしまう職場の実態がかたやあるからなのだろうか。
  それとも、受験勉強により、ただひたすら与えられた問題に取り組み、その正答を求め続ける呪縛のなせるわざなのか。その受験勉強の勝者ほど呪縛にとらわれるのだろうか。