2月4日(水)

 3限目は情報Aという科目で、進学クラスの授業(1年のクラスに近い第4情報室)であった。授業の当初から授業担当者用のパソコンのエラーが続出し、授業が進まなくなった。その間、生徒はどうしてよいかわからず、指示を出してくれとの不満が続出した。何をすれば良いかは、この前の授業で何をやったかわかれば自ずとわかるものだが、先生は指示するもので、生徒は指示されるものと思い込んでいる。

 しつこく食い下がってくる3人の生徒がいたので、隣の別室に読んで話を訊いてみた。その別室は、第4情報室の奥からすぐに入れるようになっており、授業中に問題のある生徒を指導するのに使っていた。

 生徒は興奮しながら話しており、卒業しても、指示がないと動けないようで、会社に入っても、上司の指示で動くという。それでは、その会社がなくなったらどうするのかと訊いたところ、別の会社に行くという。上司の言うことを、適否を自分で判断することなく、盲目的に従っていくということだった。

 今の時期、1年生は産業社会という科目で課された原稿をパソコンで清書作業することがあった。そこで例年第4情報室を使用するわけで、その第4情報室の使用のことで、丸山先生は3階の職員室にいる瀬町先生の方へ行った。瀬町先生が嘆息して言うには、「生徒の学力が低下していて、今になっても原稿が書けない生徒が少なからずいるのですよ。それを担任が指導するわけで大変なことです」

丸山先生は机の上に置いてある生徒の原稿の束に目を向けながら、

「そのような生徒は、職員会議で言ったように、適性がないのだから学校が面倒見よく、進路を変えさせる。やめさせたらどうですか」

瀬町先生は机に向ったままの姿勢で、丸山先生を見上げて、

「面倒見よい学校というのは、響きがよく、かっこいいのですが。あの(吉沢)校長、面倒見よいとは何かを示しませんでした。建前だけで通っているのですよ。社会も同じで、建前だけや」眉をひそめて言った。

「亡国という文字を使った書籍を見ますが、亡学校になりますか。学校がなくなったら、どうなるのですか」丸山先生が冗談のように言うと、

「少年の家、青年の家になるかな」瀬町先生は軽く応じた。

 放課後に校務運営委員会があり、来年度年間行事計画の再審議が行われた。

漢字検定は、教育目標ではないので、土日にしてはどうかという意見に対して、業者委託にしてはどうか。漢字検定と言わず、各種検定も土日に業者委託にしてはどうかという意見があった。それに対して、「業者委託は不必要」と簡単に吉沢校長に一蹴された。

 就職校内選考会議の日が校長会とぶつかっているという話になり、吉沢校長が言うには、遅れて出席するという話であった。「その会議で決めるとき、校長がいるのですか」と訊いたところ、「いない」という。この就職難のときに、就職校内選考会議の大事なときに、校長がいない。よっぽど校長会が大事だとわかった。

 特活課から提案があり、6月の体育祭を5月にもっていってはどうかという提案があった。しかし、前回の会議で、特活課の意見で、本来5月にあったものを6月にしたのに、一体どういうことかと非難があった。しかし、大須磨教頭の「よりよい形であればいいでしょう」という意見から再審議することになった。

 丸山先生は、窓の外に眼を向けると急速に暗くなっていくのがわかり、時計を見ると4時半をまわっていた。このままでは、だいぶ時間がかかってしまう。内心、体育祭を5月にしようが、6月にしようがどちらでも良い。特活課の中で充分審議して、提案してくれたら時間もかからなくて済んだのにと思うことしきりだった。校内ランの調査も残っており、また明日の人間ドックで今日午後9時までに病院につかなくてはいけないことを思い出し、会議を途中退席した。
  ようやく作業が終わり、午後7時20分に学校を出発した。外は、緩みない寒波に襲われたためか、白い粉が舞っていた。冬の自動車道をひたすら走り、午後8時50分に人間ドックを受診する病院に到着した。